大学院法学研究院 准教授
大賀 哲

藤原帰一「同盟強化より外交力を」(朝日新聞)

2015.06.22

26277783_624もう先週になってしまいましたが、東京大学の藤原帰一先生が朝日新聞の「時事小言」(6月16日夕刊)に安保法制についての小論を書いておられました。非常にバランスのとれた良い記事でした。

要点を掻い摘んで言えば、①集団的自衛権は同盟と不可分の概念である、②同盟が戦争を誘発するわけではない、③軍事協力のための法整備それ自体が好戦的とは言えない、④同盟によって紛争が打開できるわけではない、⑤中国が安保法制によって行動を変える可能性は低い、⑥同盟と軍事的威嚇によって国際紛争を打開することは困難である、⑦日本に足りないのは外交、⑧軍事力が国際関係の現実であることは無視できないが、軍事に依拠した対外政策は安定を阻害し、緊張を助長する、といったところでしょうか。

非常に国際政治学者らしいと言うべきか、複数の可能性を想定し、その選択肢の間でさまざまな要因を比較考量するという意識が強く現れています。①から③はお馴染みの議論ですが、集団的安全保障の概念というのは複数国間での同盟という制度と強く結び付いています。明示的にせよ、非明示的にせよ、同盟とは集団的自衛権の存在を互いに確認し合う制度であるからです(無論、それがいまの日本という国のかたちにあった制度であるかどうかはまた別の問題です)。その上で、②③のように同盟それ自体が必ずしも好戦的、戦争を誘発するものであるとは言えません。しかしその反面、同盟によって戦争の危機が確実に遠のくものとも言えません。勢力均衡における抑止力の考え方ですが、特定の同盟を結ぶことは、それが相手国の何らかの行動を思い止まらせることもあれば、逆に警戒を生んで相手側からの攻撃を誘ってしまう場合があります。したがって、同盟それ自体は戦火を呼ぶこともあれば、戦争を抑止することもあります。どちらがどうかというのは一概には言えません。

このように軍事力による抑止は成功する場合もあれば成功しない場合もあるわけですが、この小論では、安保法制によって、つまり日本が集団的自衛権を行使しますよと宣言することで中国が行動を変える可能性は低いと考えています。さらに軍事力に依拠した外交で国際問題を解決することは困難であろうと述べています。これは至って真っ当な考え方で、抑止力というのは日米安保や在日米軍の存在によってすでに生じていますし、中国も日米が協力して作戦行動をとることくらいは織り込み済みでしょうから、改めて集団的自衛権を行使可能としたところで、それによって中国が改めて行動を変える、または慎重に行動するようになる可能性は低いというわけです。その意味で、東アジアの安定はアメリカのやる気に依存しており、(軍事バランスが変化しない中で)日本が集団的自衛権を「使えるようになった」としても何も変わらないというのは正鵠を射た指摘だろうと思います。

結果、軍事力が国際関係の現実であることは無視できないが、軍事に依拠した対外政策は安定を阻害し、緊張を助長するという結論が導かれます。つまり軍事力による抑止はまったく無意味ではないが、それのみに依存する外交は国際関係を不安定にし、且つそれで国際問題が解決する可能性は低いというわけです。

この小論を読んで思い出したのでハンス・モーゲンソーの言葉(モーゲンソー『国際政治(下)―権力と平和』348-351頁)です。「軍隊は対外政策の手段であってその主人ではない」。さらに「後退すれば必ず面目を失うとか、前進すれば必ず重大な危険にでくわすといった立場に身をおいてはならない」 とも言っています。これはモーゲンソーもそうだし、現在のリアリズムの重鎮であるミアシャイマー(『大国政治の悲劇』)、スティーブン・ウォルト(『米国世界戦略の核心』)、それから翻訳は出てませんが同じく、ウォルトのThe Origins of Alliances (Cornell Studies in Security Affairs)などにも共通して現われている問題意識なのですが、つまり、軍事力の使用(武力行使)は極力避け、軍事力を用いずに如何にして目的を達成(国益を増進)するのかというところに彼らの主眼があるのです。実際、均衡や抑止力に対しての国際政治学の概念、選択、思考というのは実に多様です。

やや大げさに言えば、平和というのは、軍事力を背景とした抑止や辛抱強い封じ込め、外交努力によって維持されてきたのであって、軍事力を行使しなければ平和が保てない、安全を維持できないというのは、国際政治学の知見とは少し異なるように思います。○○でなければ国が守れない、○○すれば国が守れるという思考も国際政治学の伝統的な思考とはかけ離れています。

むしろ、先ほどのモーゲンソーの言葉「後退すれば必ず面目を失うとか、前進すれば必ず重大な危険にでくわすといった立場に身をおいてはならない」に強く現れていますが、そうした「背水の陣」・「二者択一」的状況に身をおいてはならないというのが国際政治学の思考法です。

国際政治学には理論や方法論が沢山ありますが、これが「決定版」というものはありません。状況や文脈が異なれば適用すべき理論や方法論は異なってくるからです。競合する複数の選択肢が相応の合理性を持っている中で、特定のツールに依拠するのではなく、状況に適した理論と方法論を選択して解を導くのが国際政治学の基本的な姿勢であると言っても良いでしょう。

「政治は可能性の芸術」というビスマルクの言葉が、国際政治の本質を良く言い表わしています。国際政治の世界というのは、異なった価値がせめぎ合い、多くの可能性がひしめき合っています。そうした政治の可能性と多元性の中で、何が実効的で妥当な解なのかを冷静に考えるのが国際政治学という思考なのです。逆に言うと、「○○をするのが良い」「□□をしてはならない」「××以外に方法はない」ということを断言している議論にはかなり違和感があります。見方を変えればまったく逆のことが言えてしまうのが国際政治学なわけで、そんな簡単に結論出しちゃっていいんですか?(笑)という思いがあります。

個人的には今回の法案には反対なのですが、法案が成立した場合と成立しなかった場合で、それが米/中/ASEAN/台湾/韓国に対してどんなメッセージになるかっていうことはシナリオ別に考えるべきで、そうすると○○しないと絶対ダメ!っていう話ではないわけで、結局、同盟を強化する、軍事力によって抑止するということも必要だけれども、それ以上に外交交渉を通じた紛争の回避ということに注意を払うべきなのではないか、安全保障一辺倒、抑止一辺倒の姿勢はかえって安定的な外交を阻害するのではないかということです。国際政治学的な示唆に富んだ論考ではないでしょうか。


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