大学院法学研究院 准教授
大賀 哲

平和運動は傲慢なのか?

2015.06.27

20150627先日、ask.fmで質問を受けました。いろいろと考えさせられる内容を含んでいたので、ここで公開したいと思います。囲みの中が質問、以下が私の回答です。

核兵器の根絶運動だとか集団的自衛権反対運動だとか、自分たちのやることはすべて平和に資するなどとのたまう”自称”平和主義者の方たちがおられますが、傲慢だと思います。なぜなら、歴史を鑑みるに、「平和的活動はすべて平和につながる」という公式は決して成り立たないからです。ネヴィル・チェンバレンの宥和政策がそうだと思うのですが、「平和的」な行動が必ずしも平和につながるわけではなく、どの選択が真に平和に資するものであったかは、後世の人間でないとわからないはずです。そうした傲慢な「平和主義者」たちを大賀先生はどのようにお考えになりますか。

 なぜ私にその質問をされるのか理解に苦しむところです。というのは、恐らく私は質問者さんの言うところの「自称・平和主義者」と通じるところがあるのではないかと思うからです。いくつかお応えというかご意図のよく分からないところも含めてコメントさせていただきます。

①「自分たちのやることはすべて平和に資する」、「平和的活動はすべて平和につながる」という意見を私は殆ど聞いたことがありませんが、どのような方々のどのようなご意見を想定されているのでしょうか?

②その上で、ちょっとよく分からないのですが、質問者さんは(a)平和運動そのものを批判されているのでしょうか?それとも(b)平和運動そのものは構わないが、「平和的活動はすべて平和につながる」という傲慢さを非難されているのでしょうか?

③上の回答が(a)である場合ですが、たとえば戦争という判断が妥当なものであるか、妥当でないものとなるのかはその時々の状況によって異なります。したがって、その時々の状況判断で「戦争に反対する」「平和を訴える活動をする」というのは、それ自体として否定されるようなものではないのではないでしょうか。つまり、一概に「平和主義は誤りである」とは言えないのではないでしょうか?

④有名な話では「リアリスト」に分類されるモーゲンソーやケナン、ウォルツ、ギルピン、ミアシャイマー、ウォルト(挙げれば切りがありませんが…)などもベトナム戦争やイラク戦争に徹底的に反対していました。もちろん彼らは「自分たちのやることはすべて平和に資する」などと考えていたわけではありません。平和を求める運動を「平和主義」とひと括りにするのはちょっとどうなんでしょう…というのが私の率直な印象です。むしろ「自称・平和主義者」なる集団がもしも存在するのであれば、それと同じように「自称・現実主義者」という集団も存在しうるのではないでしょうか?

⑤最後になりますが、チェンバレンの宥和政策の失敗を挙げるのであれば、ベトナム戦争の失敗も挙げるべきではないでしょうか。つまり、前者は軍事介入を忌避して戦争が拡大した例、後者は強引に軍事介入を行って戦火が拡大した例です。どちらが正しい判断であるかは一概には言い切れません。それと同様に、質問者さんが仰る「自称・平和主義者」の活動が、まったく無意味・無駄であるとは私は考えていません。それは戦争を回避する場合もありますし、間接的に戦争を助長してしまう場合もあるでしょう。もちろん、「反・平和主義」の側に立つことが必ずしも平和を保障するというわけでもありません。

・・・と回答をしたところ、さらに次のようなご質問もいただきました。

↓の質問者です。私の意図としてはbでした。平和に対して様々なアプローチが存在する中で、「9条を堅持すれば平和は保たれる」とかいったような、一元的な平和論を振りかざして他の意見に対して排他的である人たちが集団的自衛権反対活動をされている方々に多くみられるように思います。そういった人々が私には「傲慢」であるように感じられ、非常に疑問を持たざるを得ませんでした。少しラディカルな表現ではありましたが、そうした平和に対して硬直的な思考の人々を、国際政治学者としては如何にお考えになるのかお聞きしたくご質問しました。

なるほど。仰りたいことはなんとなくわかりました。私は9条堅持、集団的自衛権反対という主張にはとくに違和感はなく、むしろ賛同していますが、「他の意見に対して排他的」という議論は分からなくはないです。ただ、いまは平和運動がクローズアップされているだけで、そういう「排他性」はあらゆる政治活動、社会運動に内包しているように思います。先ほどと同じことになりますが、平和に対しての硬直的な思考があるように、国防に対しての硬直的な思考もあります。イデオロギーの有無に拘わらず、どんな集団でもこういう人たちは一定数は存在しています。

他方で、そうした排他的・硬直的な思考が長続きすることはないと思うのです。自然淘汰されていくと思います。何故かというと、政治運動や社会運動は支持者を増やさなくてはなりませんから、必然的に排他的・硬直的な運動では支持を調達することができなくなります。そこで多くの運動はなるべく多くの人々を包摂可能なように排他性・硬直性を削ぎ落した思想形成・組織運営をしていきます。逆に言えば、排他的・硬直的な組織は自ずと自壊していきますので、憂慮するような問題ではないと思っています。

 

追記:
非常に考えさせられる問いでした。私が言いたかったこと、というよりも違和感は次の三点に集約されるのではないかと思います。第一に「平和主義者」という一枚岩の集団が存在しているわけではなく、多様な集団、多様な人たちがその時々の状況において「平和主義」や「平和運動」という手段を選択しているに過ぎない。つまり、「平和主義者」をひと括りにすることはできないのではないかということ。

第二に、無論そうは言っても、極端な主張(「自分たちのやることはすべて平和に資する」、「平和的活動はすべて平和につながる」)を行う人たちはいるのかもしれません。私はほとんど目にすることはありませんが…。ただ、こうした極端な主張をする人たちはどのような思想・信条、政治集団にも一定数存在するので、そのような人たちを以て果たして平和運動全体に一般化できるだろうかということ。言い換えれば集団Aの中でかなりたちの悪いグループaという人たちがいた場合に、aを以てA全体を一般化できるかという問題です。

第三に、結局政治運動というのは身内、仲間内だけではなく、幅広い人たちから支持を調達しなければなりません。幅広い支持を調達するためには、多様な価値観が存在することを前提とした上で、どのような人たちでも参加可能なように目標やスローガンをある程度広く取っていく必要があります。そのように考えるならば、「自分たちのやることはすべて平和に資する」、「平和的活動はすべて平和につながる」というような一方的な命題は主張されにくいのではないか。仮に主張されるようなことがあったとしてもそのように排他的・硬直的な集団は組織として持続していかないのではないか。そうすると結局、第二の違和感にあったように、そうした人たちを平和主義者全体に一般化できるかどうかはかなり怪しくなってきます。

というように、私個人の考えとは違った角度からの質問でしたが、非常に考えさせられる内容を含んでおり、個人的には考えを整理するとても良い機会になりました。多謝です!


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