2015.04.23
先日、学内のとある部署から「障害のある学生への合理的配慮のお願い」という文書が回ってきました。難聴、色覚異常、発達障がい、性同一性障がいなどの学生さんに対して授業での配慮をお願いしますという内容でした。これがかなり先進的で素晴らしい内容で、たとえば難聴の人のために重要事項は口頭説明だけでなく文字で伝える、色覚異常の人のためにグラフなどは色表示ではなく模様表示にする、発達障がいの人のためには曖昧な表現ではなく分かりやすく具体的な表現を用いるなど、と書かれています。
さらに、性同一性障がい(性的違和)については、名簿における性別表記の配慮や多目的トイレの使用など様々な説明がありました。とくに授業については次のような記述がありました。
授業:自認する性別のグループの選択、性別ごとのグループ分け以外の方法によるグループ分けを実施する
これはとても基本的なことですが、男女をペアにしてグループを組ませるという形式は結構あるのではないかと思います。そして、どこかで私たちは「それが当たり前」だと思っています。また、男女1対1ではないにせよ複数の男女で(まさに男女というジェンダー・カテゴリーを自明のものとして)グループを組むという形式もあるでしょう。しかし、社会が多様化していく中でこうした発想は転換点を迎えているように思います。
いまのこのご時世に、大学生くらいの微妙な年齢の子たちに「男女ペアでグループ作る」というのはどうでしょうか。もちろん、男性のみ、女性のみでグループを作るよりも、いろんな属性の人たちがグループにいたほうが多様な意見が出てくるので良いとは思うのですが、他方でジェンダー・カテゴリーを前提とした授業のあり方というのはやはり配慮した方が良いでしょう。例に挙げられている、性的違和の場合もあれば、LGBTの場合もあるでしょう。単純な一般化はなかなか難しいと思いますが、「男女というジェンダーを前提にしてグループを作ること」の恣意性はもっと意識されても良いような気がします。自分が「当たり前」だと思っていることが他人を傷つけてしまう可能性にはもっと敏感でなければならないのかもしれません。