大学院法学研究院 准教授
大賀 哲

現実主義とリアリズム

2015.06.16

20150616「現実主義」、「リアリズム」という言葉があります。言葉の意味として考えると、「現実を志向する」ということでしょうか。現実思考を主義(イズム)とするという意味になるかと思います。私は昔から、好んでこの言葉を使う人たちがあまり好きになれません。何故かと言うと、現実とは一枚岩なものではなく、観点や立場が異なれば見える「現実」も違ってきます。にもかかわらず、「現実主義」、「リアリズム」を自称するということは、自分の見ているものだけが「現実」、自分の選んだ「現実」だけを志向すると表明しているのと同じだからです。ところが、「自称リアリスト」の人たちは都合のよい「現実」だけを選びとって、それだけが「現実」であるかのように主張します。こんな滑稽なことはありません。「現実」という言葉は、「理想」や「ユートピア」の対義語としても使われているでしょうか。しかし、そんな単純な現実、つまり一意的に確認しうるような現実など存在しないのです。

「現実主義」と「リアリズム」というと私は丸山眞男の議論を思い出します。丸山は「リアリズム」と「現実主義」を区別します。リアリズムとは―これが彼の考える本来の意味のリアリズムなのですが―、状況を客観的に認識して妥当な解を導き出すこと。丸山は「政治とは可能性の芸術である」というビスマルクの言葉を好んで引きますが、すなわち現実とは「可能性の束」であり、現実を静的なもの、固定的なものとして見ないで、複数の可能性が常につくられ続けていく政治というアリーナの中で、どの可能性を伸ばし、どの可能性を保持していくのか、それらを意義づけ、関係づけていくための政治的な技術であるということです。
 それに対して、現実主義とは現実への屈服、既成事実への屈服なのです。丸山にとって、現実主義とかリアリズムの欠如として現れます。具体的には1949年の論文で次のように述べています。

  • 既成事実への屈服とは何か。既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となることである。(106頁)
  • 右のような事例を通じて結論されることは、現実というのは常に作り出されつつあるもの或いは作り出されていくものと考えられないで、作り出されてしまつたこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こつて来たものと考えられていることである。「現実的」に行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということになる。従つてまた現実はつねに未来への主体的形成としてではなく過去から流れてきた盲目的な必然性として捉えられる。(109頁)

「軍国支配者の精神形態」〔1949〕『現代政治の思想と行動(増補版)』未来社

※原文の傍点強調には下線を付しています。

ここでは固定的な現実理解、既成事実への屈服をリアリズムの欠如、すなわち「現実主義」と定義します。こうした静的な、固定的な現実認識に警鐘を鳴らしているのです。続いて、52年の論文では、これをさらに精緻化し、現実主義の三つの側面を挙げています。

丸山眞男「現実主義の陥穽」(1952年)

  • 現実とは本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもつぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません。(中略)「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。(172頁)
  • いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によつて立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいつて叱陀する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(172頁)
  • そう考えてくると自から我が国民の「現実」観を形成する第三の契機に行き当らざるをえません。すなわち、その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです(175頁)。

「現実主義の陥穽」〔1952〕『現代政治の思想と行動(増補版)』未来社

※原文の傍点強調には下線を付しています。

要約しますと、現実の所与性(現実は所与のもの、不変のもの)、現実の一次元性(特定の可能性だけが唯一の現実として扱われる)、現実の恣意性(支配権力の選択がすぐれて現実的であると捉えられる)の三点です。現実とは日々作られるものであり、さらにそれは一面的なものではなく、多面的に観察・分析しなければならない。さらに最後は政治の契機、権力の選択だけが「現実的」だと看做される、あるいはそれによって正当化されるという点が強調されます。

実はこの権力の契機については3.11以後にあの村上春樹も指摘しています。東日本大震災とその後の原発事故に際して、日本中で脱原発運動が巻き起こりました。反面、そうした脱原発運動には「現実を見なさい!」という批判が浴びせられました。村上はこの現実的/非現実的の恣意性を厳しく非難しています。これはまさに丸山が指摘したように、権力の選択が「現実的」なものとして正当化され、それに反対することが「非現実的」だとして攻撃されるという構図です。

その意味では、「○○は現実が見えてない」というのは誤りで、正確には「私が恣意的に選び出した現実を皆が見てくれない」と言うべきなのです。これは当たり前のことです。「現実」というのは重層的で多様なのですから。最近の安保法政との兼ね合いで言えば、賛成派に見える「現実」があるように、反対派に見える「現実」もあります。

  • ここで今日僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、「規範」です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
  • まず、既成事実が作られました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてなってもいいんですね」「夏場にエアコンが使えなくなっていいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
  • 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです
  • 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは私たち全員の仕事になります。それは素朴で黙々とした、忍耐力を必要とする作業になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなが力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。

村上春樹/カタルーニャ国際賞受賞スピーチ 2011年6月9日

※下線は大賀

最後になりますが、「規範」についての印象的な言葉があります。規範とは私たち全員に関わっています。規範は法律などのルールから日々の道徳、倫理まで私たちの生活の隅々に及んでいます。しかし規範は簡単に壊れます。しかも簡単には修復できません。そして、失われた規範の回復は社会の私たち全員の仕事になるのです。現実に追随することなく、既成事実に屈服することなく、「現実」の多元性を見据えていかなければなりません。それによって「規範」を守り、それらをより良いものにしていくことが可能になるのではないでしょうか。

 


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