2015.06.10
本書は1992年に中公新書として出版された著作を文庫化したものです。万国博覧会を対象として、その文化表象と権力の問題を課題としています。理論的にはやや古くなった感じは否めませんが、何気ない社会制度や日常のまさざしを「近代」と「権力」の問題として再構成するカルチュラル・スタディーズの王道であり、傑作と呼んで良いと思います。権力が≪文化≫という表象を生産し、同時にまたそうした文化表象が権力を再生産するという継続的な過程の中で、万国博覧会とその背後で再構成されるイデオロギー・言説・表象の形成を論じ、それが博覧会に集まってきた人々の「近代への/近代からの」まなざしとして考察されています。
著者によれば博覧会とは、動物園や植物園などの視覚の制度を、産業テクノロジーを基軸とした壮大なスペクタクル(見世物)として再構築したものであると言います(26頁)。博覧会は「産業」のディスプレイであると同時に「帝国」のディスプレイでもあり、近代を知るための情報メディアとして、まさにそれ自体が「見世物」として機能していたというわけです(30-31頁)。こうした視座は、近代化や文明化という過程を社会的権力の配置から見ていくという上で非常に有益でしょう。
明確に線引きすることは難しいのですが、本書は大きく分けて、欧米列強の博覧会(1、2、5章)、文明開化の中での近代日本の博覧会(3章)、大衆文化に包摂されていく博覧会(3、6章)という三つの柱を描きながら、帝国主義と資本主義との相互作用を詳細に論じています。文化戦略的に権力が作動する場としての博覧会を描写し、帝国主義とコマーシャリズムの交錯が描かれています。
上述のように、博覧会は「産業」のディスプレイであり且つ「帝国」のディスプレイでもあります。この点は非常に説得的ではあるのですが、20世紀後半になるとこうした構図も揺らいでいるように思います。両者を完全に区別することは難しいのかもしれませんが、「帝国」ディスプレイとしての博覧会が「産業」ディスプレイとしての博覧会へと変異しているようにも感じられます。博覧会がコマーシャリズムの要素をどんどん取り込み、企業パビリオンなどが乱立する中で、文明を俯瞰するという「博覧会的世界像」が連続的な変化を体験するような「テーマパーク的世界像」へと変容していく(262頁)というのはそうした変化の端緒をなすものかもしれません。その意味では、「帝国」ディスプレイの論理がやがて「産業」ディスプレイ、「資本」ディスプレイの論理へと変容していくというメカニズムをより明確に打ち出せていると良いのではないかと思いました。
いやむしろそれはこれからの課題なのかもしれません。一見、社会的権力だと思っていたものが実は政治的権力であり、且つそれも他の視座から見れば経済的権力であったというように、権力の視座というのはひとつではありませんから、それを多角的な権力がどのように構築されていくのかを多元的な視座から考察していくことが求められているのかもしれません。筆者の問題意識を強く感じる傑作です。