大学院法学研究院 准教授
大賀 哲

安全保障では何が起こるか分からない?

2015.06.15

20150615国会では安保法制をめぐって与野党の激しい攻防戦が繰り返されています。議場の外に目を向ければ、全国各地で法案反対のデモが行われています。政府の答弁は空転するばかり。内閣支持率は低下し、法案に対する懐疑の声は日に日に強くなっています。

ここのところ少しずつではありますが、法案審議の過程で、現実の国際政治や安全保障についての議論にも注目が集まっているように感じます。多くはありませんが、一部の国際政治学者、安全保障研究者からも問題提起がなされているようです。

ただ個人的には、①安全保障環境が厳しさを増している、②集団的自衛権の行使容認が必要である、ということの因果関係(①→②)を現時点で合理的に説明している国際政治学者はあまりいないのではないかと思っています。たとえば①だけとか、②だけということであればいらっしゃるんでしょうけど、①と②の因果関係―すなわち、今日の安全保障環境の変化は、本当に集団的自衛権の行使をしなければ対応できないような問題なのか?―ということをきちんと説明してる議論は非常に乏しいのではないかと思います。

たとえば、シーレーンの問題や領海侵犯の事例等は個別的自衛権の範囲内で対応が十分に可能です。または、時折問題とされる海外での邦人保護や邦人誘拐の事例などは自衛権の問題ではないですし、たとえ集団的自衛権の行使を容認したとしても絶対に解決できない問題です。また、仮に集団的自衛権を行使して(たとえば具体的に攻撃を受けている国と共同して)これらの問題に対処したところで、結果に際立った違い、目に見える成果があるようには思えないというのが率直なところで、状況や経過にも拠りますが、そもそもこれは集団的自衛権の問題ではないのではないでしょうか。言い換えれば、個別的自衛権で対応可能な事象、あるいは集団的自衛権を以てしても解決不可能な事象が、「集団的自衛権の行使によって解決されうる問題」として論じられているのではないか、ということです。

他方、法的制約を無視した「安全保障の論理」がとても不気味なかたちで拡大している、ということのほうにより強い懸念を感じます。「安全保障では何が起きるかわからない」、「状況は動的に展開していく。事態はどんどん変化していく」という理屈で、法的議論を軽視する論法を最近よく耳にするようになりました。

しかし、状況がどのように悪化するか分からないと言えば、どんなことでも正当化されてしまいます。たとえば日本は、核兵器はもちろんのこと、大陸間弾道ミサイル、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母など主として攻撃を目的とする手段は、憲法上保有できないとしています。しかしこれだって、状況は動的にどんどん変化する、敵はどう出るか予見困難で、場合によっては国民の甚大な被害が予想されるのでと言ってしまえば、こうした攻撃兵器の保有も正当化されてしまう可能性がある。

「安全保障では何が起きるかわからない」、「状況は動的に展開するので」という言葉は、しばし「リアリズム」という言葉を伴いながら、一見もっともらしく聞こえますが、歯止めのない攻撃行為の応酬へと帰結してしまう可能性があります。「安全保障環境の変化」とか「切れ目のない対応」とか「あらゆる事態を想定して」というのは枕詞のようなもので、実際には何も言ってないに等しいのです。こうした「安全保障」言説には注意を払う必要があります。

また、中にはテロ組織や○○国はルールなんて守らない!どんな手段に出てくるか分からないから、こちらも相応の対策を準備しなければならない。そのためには集団的自衛権が必要だ!という議論まであります。これこそまさに、歯止めのきかない攻撃行為の応酬です。

こうした歯止めのきかない攻撃行為の応酬ということを考えるとき、とても重要な議論があります。土山實男先生の「ヤクザとカタギ」という興味深い議論です。土山先生は次のように述べておられます。

そうした場合、ヤクザとカタギが紛争を起こした場合に、②の先制行動というのは、ヤクザがカタギに手を出す前にカタギがヤクザに対してヤクザのように行動することをいう。しかし、そうすると今度はカタギがカタギとの紛争に入るときに、そういうヤクザの行動、つまり先制行動をとらないだろうかという懸念が生じる。だから、ヤクザに対してはヤクザのように対応する仕方があっても良いというのは、場合によっては正しいが、心配されるのは、カタギがいつもヤクザにヤクザのように対応していると、段々とヤクザになることに抵抗を感じなくなるのではないか―今日のイスラエルみたいなことにならないか、ということである。

(土山實男「不安の『帝国』アメリカの悩める安全保障―9.11以後」山本吉宣・武田興欣編『アメリカ政治外交のアナトミー』(国際書院、2006年)、61-2頁)

これはテロ組織に対しての先制行動・予防戦争に関する言及なのですが、これはおそらく日本をとりまく安全保障環境についての言説状況にも言えるのではないでしょうか。たとえば、「○○国は国際法なんか守らない、主張もメチャクチャ、集団的自衛権が絶対必要!」という議論が一方にはありますが、この議論は相当慎重に考えないと「ヤクザとカタギ」のような話になってしまう可能性があって、安全保障は何が起こるか分からない!だから、法的制約なんかどんどん取っ払ってあらゆる事態に対処しなければならない!というのは一見それらしく聞こえますが、これは非常に危うい思考だと言わなければなりません。法的制約を度外視する、或いは軽視するということは時として、冷静で節度ある判断を不可能にしてしまいます。まさにカタギがいつもヤクザのように振舞っていると、ヤクザになることに抵抗を感じなくなるのです。「安全保障では何が起こるか分からない?」という議論は、そのことの意味を慎重に考える必要があるのです。

 


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