2015.04.1
大賀哲(おおが・とおる)です。このたび、ホームページを開設することにいたしまして、それに合わせてかなり久しぶりにブログを書くことにしました。ブログを書くのはほぼ10年ぶり(くらい)です。なぜ止めていたのかというと、研究者だったら「ブログを書いてる暇に論文を書こう!」と生意気にも思っていたからです。ただ、論文というのはあくまでも「完成品」なので、完成品になるまでの葛藤や試行錯誤を文章にして残しておくのも悪くはないなと思うようにもなり(笑)、ちょうど良い機会なのでまた書いてみようと思いました。
ブログというと、私は必ずある人を思い出します。村山敏勝さんという英文学の先生です。成蹊大学で教鞭をとられていました。10年ほど前に38歳の若さで夭折されました。
私は直接面識があったわけでも、学者としての村山さんの仕事をよく存じ上げていたわけでもありません。当時私ははてなダイアリーでブログをやっていて、村山さんもはてなダイアリーでブログをされていたので、それで若干の交流があったという程度です。村山さんのブログは今でも当時のまま残っています(奥様のご配慮であると風の噂で耳にしたことがありますが…実際のところは良く分かりません)。
その頃、私はイギリスから帰ってきたばかりで、要するにまだ日本の大学に就職する前で、わりと時間を持て余していた時期でした。
当時、村山さんのブログはかなり読んでいたと思いますが、その中でも一番好きだったのがこの2005年8月10日のエントリーです。
http://d.hatena.ne.jp/toshim/20050810
いまでも壁にぶつかったときについつい読み返してしまいます。分野外の方(もちろん私もそうですが…)にとって恐ろしく読み難い文章ではないかと思います。良い意味で、分かり易く、読み易く、というサービスをする気がまったくないからです。まあ、そういう潔いところも良いと思います。とくに心に響くのは最後の段落。
・・・わたしを突き動かしているおそらくただ一つの欲求は、目の前にいる人が、あるいは目の前にある本を書いた人が、なぜいまそうあるかを知りたい、ということだ。あるいはこれに、そのためには、こちらがなにか問いかけたときに、真面目にそれに応対してくれるような環境を作りたい、ということを加えてもいいかもしれない。
目の前にいる人が、目の前にある本を書いた人が、なぜいまそうあるのかを知りたい。そして、問いかけに真面目に答えてくれる対話の場を作りたい。おそらく、良くも悪くも自身の好奇心に忠実な人なんでしょう。私もたぶんそういうところがあるので…この気持ちはとても良く分かります。
自分の専門と重ね合わせながら考えると、私は国際政治学の理論研究を主に行っています。理論研究というと難しく聞こえますが、私は理論研究というのは、どのような思考過程を経ればその理論が導いた結論にたどり着くのか、その場合にどのような問題意識で何を取捨選択したのか、そうしたことを論理的に再現する作業だと思っています。この作業は、「正しい理論」と「正しくない理論」を選別することではありません。何が正しくて何が正しくないのかという判断は(やむをえずする場合もありますが)それほど重要ではないと思っています。なぜならば、理論研究の目的は「世界で最強の完全無欠な理論を導き出すこと」ではないからです。どんな理論にも欠点はあります。特定のアングルから特定の現象をとらえているので必ず死角ができます。世界のある現象のどこかに光を当てれば、光の当たらない部分には必ず影ができます。私たちのすべきことは、正しい理論を見つけだすことではありません。それぞれの理論において、その理論は何にフォーカスしていて、その意義と限界は何かということを適切に見極めることです。どんな理論も世界のすべての事象を説明し尽くすことはできません。ある領域に妥当する理論が他の領域で妥当しないということは珍しいことではないのです。したがって、その理論がどの領域においてどのような条件で妥当し、他のどのような領域においてはどのようなの条件で妥当しないのかを検証するということになります。それは、視角と死角を明らかにすると言い換えても良いかもしれません。
このことは、「知りたいという好奇心」にどのようにアプローチしていくのかということと無関係ではないと思います。たとえば「自分は正しい知識を持っていて、それをあなた方に教えてあげます」とか「それが理解できないあなたたちは意識が低い」という認識があったりすると、好奇心や問題意識がどんなに優れていてもちょっと痛い人だなあと思ってしまいます(実際、そういう学者先生は多いのですが…)。社会科学の世界には「正解」はありません。あるいは、「妥当な答え」は複数ありますと言った方が良いでしょうか。時間、場所、個別の条件設定が異なれば、何が妥当な方法であるのかを一概に言うことはできないのです。正解のない世界においては、「これが正解!」と主張した途端にそれは不正解となるという構造があります(一概に言えないものを一概に言おとすることは、物事の適切な理解を妨げます)。
「正しい知識を教えてあげますよ」というアプローチはとても危ういものです。端的に偉そうということもありますが(笑)、どんなに知識を極めても私たちには他人の問題意識を裁くことはできません。いや、仮にできたとしてもそれをすべきではないのです。何が正しい知識なのかは人それぞれおかれたコンテクストによって異なります。「私が良いと思ったものは、皆も良いと思うに違いない」というのは最も陥りやすい隘路なのかもしれません。「正しい知識を教えてあげます」・「それが理解できないあなたたちは意識が低い」という認識には対話のフェーズはありません。あるのは、正しいか間違っているか…ただの押しつけがましい正義感だけです。こうした「正義感」は純粋に物事を知ろうとする好奇心を阻害します。ある知識が正しく、他の知識が正しくないという判断をするということは、正しくない知識は知る必要がないと切り捨ててしまうことと同義だからです。
話を戻すと、村山さんが「専門家」的になることを忌避して、「学者らしくないこと」を追求されようとしていたのはその辺に理由があるのかもしれません。「学者らしくない」こととは、「〇〇の専門家としてあなたたちに正しい知識を教えてあげますよ」という認識に立たない、ということではないかと思います。そして、むしろ「学者らしくない自分だからこそ書けるもの(追求できるもの)」があるのではないかということなんだと思います。ここまできっぱり言えてしまうのは流石です。 結局、専門家らしくない、学者らしくない、というのはこの「知りたい」という気持ちにいつまでも真摯に、忠実に、そして誠実に向き合いたいということの現れなのかもしれません。
なぜこんなことを長々と書いたのかというと、比べものになりませんが…気が付いたら自分も村山さんと同じ年齢となり、追い抜いてしまっていたからです(笑)。目指すゴールは人それぞれだと思いますが、この「知りたい」という気持ちはとても根源的なものです。「知りたい」という気持ちがあるからこそ「つくりたい」という気持ちも生まれます。結局それしかないのかもしれません。懐かしさに任せて、備忘録的に書いてみました。
以上が、たぶん「ブログを書く」ということについて想起される「研究をすること」についての私の原点ではないかと思います。おそらく、大学界の特殊事情だったり、時事ネタや書評記事が中心になると思いますが、よろしくお付き合いいただければ幸いです。