大学院法学研究院 准教授
大賀 哲

大学有志の声明

2015.08.25

大学有志の声明

九州大学でも「安全保障関連法案に反対する九州大学有志の声明」が発表されました。私のところにも賛同要請のメールが来ました。

いろいろと考えた結果、私は声明に賛同しないことにしました。まず背景説明をすると、「安全保障関連法案に反対する学者の会」というものがあります(以下、学者の会)。この学者の会とは別に、各大学有志による法案反対運動・署名活動が立ちあがっています。

これらの各大学有志の運動の一環として、九州大学でも運動が始まったのが8月11日でした。私は「学者の会」にはかなり早い段階で(6月15日頃だったと記憶していますが)署名しました。ですから、基本的に私のスタンスは法案反対です。SNSでもブログでも反対である旨を表明してきましたし、メディアにも問われれば同じく反対と言ってきました。

前述のように、「九州大学のl有志の声明」の事務局の先生からも賛同要請のメールがありました。「本メールは、学者の会賛同人一覧から九州大学と記載された方のうち、研究者情報にアドレスを公開されている方に送付しております。」とありましたから、学者の会の賛同人一覧を見てご連絡くださったのでしょう。このメールについては以下のようにお返事しました。

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九州大学声明 呼びかけ人・事務局 御中

大学院法学研究院の大賀と申します。この度はご連絡をいただき誠に有難うございます。ご承知の通り、私は「学者の会」に賛同署名いたしました。それは個々の研究者が専門的知見の範囲で今回の法案に対して意思表示をすることが重要であると考えたからです。とくに私は国際政治学を研究していることもあって、今回の法案を黙認するようなことがあってはならないという思いを強くいたしました。

同様に、今回の九州大学有志の声明(以下、九大声明)にも趣旨としては大いに賛同するところではありますが、「九州大学」という単位で、また「現役教職員」という立場で、意思表示をすることの意義について未だ確信が持てずにおります。これは一研究者として賛同することとは意味合いが異なり、教育者としての中立性という問題とも関わってくるため判断が難しいと感じております。とくに私の場合は、本学で教育担当している分野と今回の法案が対象としている領域がほぼ同一であるため、ここで教員として意思表示をすることについては大いに躊躇してしまう、というのが正直なところです。法学研究院を含め、沢山の先生方が賛同の意思表示をされている中で心苦しいところではありますが、以上のように考え、今回の九大声明への賛同は見送らせていただきます。

また、私個人は上記のように考えましたが、その是非については個々人が主体的に判断するところでありますので、学生諸氏及びご関心の方々への周知・紹介はさせていただきます。今回の九大声明には賛同できませんが、安保法案に反対であることには変わりはありません。安保法案の廃案と本運動のご発展を心より祈念いたします。

大賀哲
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誠に心苦しいところではありますが、やはり私としては、「大学」や「教員」という立場とは直接的に無関係な場所(ネットやメディアという意味です)で自由に意見を表明することと、「九州大学」という教育機関に紐付けられ、主としてその構成員や関係者のみがアクセスするであろう場所で意思表示をすることは同じではないと思った次第です(後者に場合、私は明確な意思表示は差し控えるべきであると考えています)。

というわけで、私は今回の賛同は見送らせていただきました。しかし、法案反対の気持ちはもちろん変わりませんので、賛同・署名はしないものの、皆さまがたの活動を陰ながら応援させていただくというスタンスになります。

この一連の動きの中で、改めて考えさせられることがありました。「大学有志」で行う運動、というのもそのひとつです。

「有志」とはいえ、大学の名前を冠しているわけですから、同じ意見ならばともなく、異なった意見を持っていた場合に、明示的に異論を提起しないと、つまり『私は違いますよ!』と言わないと、「同じ見解を持っていると思われてしまう」という問題が生じます。

例えば、ある日突然「安全保障関連法案に『賛成する』九州大学有志の声明」なるものが発表されたら、教員として明確に「賛成ではない旨」意思表示をするでしょう。

別の例で考えると、どこかの大学のように学長が国会の委員会に呼ばれて、法案に賛意を示したらどうなるか?これも同様に、「(同じ大学に所属していますが…)私は違いますから~」と言わざるをえなくなるわけです。

もちろん、原則として「〇〇大学有志」とか大学役員の「自由な発言」を尊重しましょうという論理は分かりますし、寧ろ私はそういう立場なのですが、逆にそういう「自由な発言/自由な行動」がとんでもなく抑圧的、暴力的に見えてしまう(こともある)という考えも分かります。この辺は難しいところです。

つまり、有志とはいえ大学名を名乗っている以上、それが大学としての見解を代表するものではないこと、大学の構成員全員が同じ意見ではないこと、声明に対しての反対意見を封じたものではないこと…などなど、諸々の配慮が必要になってくるでしょう。

それから、教員という立場で「有志の署名」とどう向き合うのかという問題があります。たとえば、こういうものがありますよ!という紹介くらいなら分かるのですが、教員が公の場所であるいは、学生さんが見てる可能性の高いネット媒体などで「署名のお願い」をしたりするのは少し違和感があります。これも単なる紹介や意見の表明くらいならば構わないのかもしれませんが、「署名のお願い」となると少し意味が強くなりすぎるのかなと思います(まあ皆さん、自己責任でなさっていると思いますので、それを責めようとは思いませんが…)。

もうひとつは、また水を差すようなことを言うことになってしまいますが、今回分かったこととしては、学生さんが学内でこういう政治的な運動をしようとするとハードルがかなり沢山ある(というか実質不可能)ということです。ただ、教員が間に入ったり、教員主体でやるとだいたい何とかなってしまう。こういう状況は個人的にはかなり違和感があります。その上、、事務メールで日弁連の院内集会のお知らせとかが回ってきたりもして、(個別の賛成・反対は別にして)やはり抵抗を感じる場面が少なくないのです。

つまり、特定の意見、特定の立場の意見はよく流れてくるけれども、そうでない意見は流れてこない、表明されない、実質的に黙殺されてしまうという構造はどうなのでしょうか。少なくとも、本学の法案反対運動については、私はそうした思いを強くしました。政治学者ならば、こうした「権力の非対称性」(とくに教員と非教員の間のそれ)にこそ問題意識を持つべきでしょう。これはもしかしたら言い過ぎかもしれませんが、「自分たち(教員)が権力(政府)を相対化するのは構わないが、自分たち自身が権力として相対化されるなんて冗談じゃない」という意識が見えたり見えなかったりするわけです。この種のダブルスタンダードは昔よく見た気がします。自分が学生の頃の教員にはこういうタイプが少なからずいました(少数ながら今もいると思います)。「またこれか」という少し残念な気分というのが正直な感想なのかもしれません。

また、伝え聞くところでは、事前のアナウンスもなくいつの間にか声明が発表されているという「お粗末なケース」もあるようです。こうした事例は、もしかしたら大学の性質をある意味で象徴しているのかもしれません。やはり大学という空間では、構成員(教員ではない)の平等な発言権という意味での民主主義は成り立ち難いということもあるでしょう。しかしまあ、そういうことも含めて、一歩下がって「政治を考えてみる」良い機会なのかもしれません。


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