2017.12.31
何度も何度も繰り返されてきたこの議論ですが、まずはこちらの記事から。
ノーベル生理学・医学賞受賞の大隅氏「視野の狭い研究者ほど客観指標に依存する」
ノーベル賞学者の大隅先生のインタビュー。趣旨は短期的スパンの研究が増え長期的視野の研究が育たなくなってきているというもの。論点は多岐にわたっているのでまとめにくいのですが、概ね二点。①評価基準がおかしい(インパクトファクターや論文数で評価するのはおかしい)、②若手はそんな基準に踊らされるべきではない。
具体的に見てみましょう(赤字強調は大賀)。
「若手は論文の数や、雑誌のインパクトファクター(文献引用影響率)で研究テーマを選ぶようになってしまった。自分の好奇心ではなく、次のポジションを確保するための研究だ。自分の軸を持てないと研究者が客観指標に依存することになる。だが論文数などで新しい研究を評価できる訳ではない」
「例えば一流とされる科学雑誌もつづまる所、週刊誌の一つだ。センセーショナルな記事を好み、結果として間違った論文も多く掲載される。彼らにとって我々がオートファジーやその関連遺伝子『ATG』のメカニズムを研究していることは当たり前だ。その機構を一つ一つ解明するよりも、ATGが他の生命現象に関与していたり、ATGの関与しないオートファジーがあるという研究の方が驚きをもって紹介される。研究者にとってインパクトファクターの高い雑誌に論文を掲載することが研究の目的になってしまえばそれはもう科学ではないだろう」
「本来、一人の研究者が年間に10本も論文を書くことはおかしなことだ。3年に1本良い論文を出していれば十分良い研究ができている。また科学者は楽しい職業だと示せる人が増えないといけない。雑務に追われる大学教授を若手が見ている現状では難しいかもしれない。米国でも同様の危機意識があり、資産家がコンソーシアムを組んで、自由に基礎科学を研究させる例もある」
かなりパンチの利いた言葉が続きますが、私はこの大隅先生の議論は「研究者の置かれている現状」という文脈で言えば、重要な事実を看過している、あるいは大隅先生のようなお立場でこういう発言をされること自体が若手の研究を抑制する負の効果を持つのではないかとすら思ってしまいます。これはなにも、大隅先生を個人的に批判したいとかそういうことではなく、人文社会科学系の文脈で大隅先生のような議論をする方(論文は数年に1本程度でいいんだ)は非常に多く、今回の大隅発言はそうしたアウトプットを出さない人社系研究者を大いに勢いづかせる結果になってしまうのではないかと危惧しています。
とりあえず、私のツイートから、
立場の不安定な若手は戦略的に動かざるを得ないので、自然とそうなります。それをやめさせるには評価システムを変えるしかありません。 https://t.co/V1aIvPmWML
— ToruOga( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2017年12月29日
私より少し上の先生方には若手の業績至上主義や研究費至上主義を訝しく思っておられる方々も少なくないのですが、結局これは学術を取り巻くシステムの構造的な問題なので、システムを変えない限り何も変わりません。研究者個人の問題(大量生産ではなくじっくりと研究に取り組め)ではないと思います。
— ToruOga( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2017年12月29日
前述のように大隅先生の議論は大きく2つの論点に分かれているかと思います。①学術・科学の評価基準がおかしい、②若手はそんな基準に踊らされるべきではない。端的に言えば、①はその通りだと思います。異論はありません。というか、学術・科学に従事している人間でいまの政策(競争的環境が強化され、基盤的研究費がどんどん削減される政策)が良いと思ってる人はほとんどいないでしょう。ただ問題は②です。これは「個人の問題なのか?」という点です。結局、若手研究者(解釈のしようによっては現役の研究者全員)は競争的環境の中で壮絶な競争を強いられています。それはインパクトファクターや論文数で評価される世界でもあります。そして、そうした論理で市場が動く以上、不安定な立場にある(定職にない)若手研究者は、そうした市場メカニズムに沿って合理的・戦略的に動かざるをえなくなります。彼ら・彼女らは生き残っていかなければならないからです。また、なんとか大学の常勤職を得られたとしても、研究費獲得競争(これは論文掲載競争とも連動しています)という名の競争は続きます。結局、論文数やインパクトファクターで研究テーマを選ぶのは個人の選択の問題ではなく、生き残るためにはそうせざるを得ない側面というのがかなり強いと思っています。言い換えれば、これはシステムの機能不全という構造的な問題なのであって、それを個人のモラルの問題のようにいうのは問題をすり替えているだけではないのか…というふうに見えるわけです。
ちなみにこんなページもありました。
教授と僕の研究人生相談所
「数年に大きいのを1報で十分とか言ってる奴がいたら、それは老害だと思えばいい。そんなことをしていても幸せな生活はおくれんよ。」
この議論には大いに賛同するところですが、私の言葉で言いかえると次のツイートのようになります。
基本ラインはいまのシステムがおかしいということで一致している(この点はだいたいみんな同じ結論)と思うんだけど、大隅先生的な議論(あるいは似たようなこと言う人たち)はそれを個人の選択に帰している(沢山論文書くのはおかしい)という点でより老害度が高いようにも。
— ToruOga( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2017年12月30日
システム・環境が一定だったら(今まで通り)数年で一本でいいというのも頷けるのだが、状況が目まぐるしく変わる中でそんなこと言われても感が。科研をはじめ競争的資金の申請という名の業績レビューが定期的にやってきて、業績ないと研究費とれない、研究費とれないと論文書けないという負の連鎖。
— ToruOga( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2017年12月30日
結局、論文書かないと研究費がとれない、研究費がとれないと論文書けないという負の連鎖がある以上、数年に1本でいい(それ以上書くやつはおかしい)という議論は環境要因を無視しているという点でとても賛同できませんし、年長者が年少者に向かってこういうことを言うのは老害以外の何物でもない…と思ってしまうわけです。
評価システムが機能していれば、論文数の多寡は問題にならない(論文数が少なすぎることが問題にならないように、多すぎることも問題にならない)はずなので、そのなかできちんと評価をすれば良いと思うので、間違ってもそれを「個人のモラル」に帰すようなことがあってはならないと思っています。したがって、まずは論文量産してる個々人を批判するのではなく、業績評価のためのシステムの再構築が急務なのではないか。