大学院法学研究院 准教授
大賀 哲

AI社会論(1)

2016.04.28

AI社会論
 

先日、「AI時代に『人文社会科学』は不要なのか?」という衝撃的なタイトルのネット記事を目にした。著者は井上智洋氏。慶應の経済学部の先生である。

非常に共感できる内容だった。後半の「AIがさまざまな学問の紐帯となり、人文社会科学は復興する」というのは問題意識としてはよく理解できる。むしろこういう問題意識こそ強調されなければならないと思う。

例の文科省通達に端を発した「文系学部解体」論―簡単に言えば文系学部は「社会的要請の高い分野」への積極的に転換しなさいというものだ―は文系研究者の中でさまざまな議論を呼び起こしている。リアクションとしてはだいたい二通り、両極端の議論があるように思う。第一はこのままでは文系学部の凋落は避けられないから、実学志向・科学志向のものを取り入れて、簡単に言えばもっと「理系化」しなければならないという議論(文科省の言う通りにしましょうというスタンスと言ってもよい)。第二はその真逆、文系学部の歴史と伝統を守るために文系学部を死守、徹底抗戦しなければならないという議論。

こういうことを言うとたぶん怒られるのだが、どちらも両極端の意見であまり建設的な感じはしない(社会科学の歴史を少し勉強すれば分かることだが、こういう議論実は100年くらいずっとしてる。つまり人文社会科学は「科学」化すべきか否かという議論)。

おそらくAIに限った話ではないのだが、社会のメカニズムが機械化され自動化されればされるほど、「機械でできること」と「人間でないとできないこと」の線引きは明確になる。量的にみると前者が増え後者を圧迫してるように見えるかもしれないが、質的にみると後者に求められるもの、つまり「機械では処理できないから人間が考えなければならないこと」というのはより一層高度化するのではないだろうか。

この記事の例で言うと、「セルフドライビングカーが人を轢き殺した時に誰が責任を取るべきなのか?」「AIを搭載したロボットが人を傷つけた場合にロボットは責任を負うべきなのか?」「どのような条件を備えたときにロボットに意識があると言えるのか?」「AIが音楽を作曲した時に、誰が創造したことになるのか?」 という問題は、今日のように科学技術が発達しなければ出てこなかった(考える必要のなかった)問題だろう。この種の問題は、人文・社会科学の知見(つまり、過去にこういう問いがあってそれに対してはこういうふうに考えて答えを出してきましたよという蓄積)が役立ちそうだし、そういう受容は今後一層強まるだろう。なにが言いたいのかというと、社会が機械化/自動化/デジタル化されたとしても、責任・権利・価値のようなメタ的思考の問題はなくならないし、むしろそういう問題への要請はより一層強くなるだろうということ。

政治学者だから、そういうところに思考が向かうのだが、デモクラシー(民主的な意思決定)というのは「機械では処理できないから人間が考えなければならないこと」の最たるもののように思う。他方で、電子政府に見られるような政策情報のデジタル化など、テクノロジーが進むことによって「人間が考えなければならないこと」を手助けするインフラを機械が作ってくれるという面はありそうである。しかし、機械あくまでインフラであるので、人間が考えなければならないこと(メタ思考)の領域はなくならないし、むしろ重要性が高まっていくだろう。

文系学部にいると、「こういう時代だからこそ人文的な価値を広めなければならない」、「プラトンやカントを読んで教養を身につけよう」という先生も別に珍しくはない。私もそのこと自体に反対する気はない。ただこれはおそらく文系学部を維持することに特別の利害を持つ私たち文系教員以外にはまったく響かない議論だろうなとも思う。もしかしたら単なる営業トークのように聞こえるのかもしれない。いま大事なことは、徒に理系化するのでもなく、むやみやたらと抵抗するのでもなく、人文・社会科学でしかできないことを考えて、「機械にできなくて人間にしかできないことはなにか?」ということを問うことなのではないだろうか。

 


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