2015.04.8
憲法学の大家による立憲主義をテーマにしたエッセイ集です。文体は平易でとても読み易いです。本書は各章それぞれ、戦後とは何か(1章)、国家とは何か(2章)、日本人の法意識(3章)、民主主義から立憲主義へ(4章)、世界の人権思想とアジア(5章)、憲法起草過程(6章)、改憲論の問題(7章)、憲法9条の意義(8章)から構成されており、内容はエッセイですが本の枠組みとしては体系的に構成されているようにも思います。すなわち、1・3・6・7・8章が日本の話で、それを挟み込むように西洋の立憲主義に立脚した概念論が2・4・5章で展開されています。立憲主義のモデルと翻って日本の現状という構成はとてもわかりやすいのではないかと思います。
私は本書の内容もさることながら、本書が書かれた「文脈」にも興味がありました。本書は2000年に執筆されています。本書の内容をより良く理解するためには、当時の政治的コンテクストを考える必要がありそうです。
90年代というのは国際的には冷戦構造が崩壊し、従来の安全保障の枠組みが大きく変動した10年でした。湾岸戦争、ユーゴの内戦とNATO空爆、国連平和維持活動の活発化など、肯定的にも否定的にも冷戦的な安全保障秩序が激しく動揺していきます。それに伴って国内的には自衛隊の海外派兵や憲法改正がしきりに議論されるようになっていきます。現在の、つまり第二次安部政権以降の改憲に向けての動きとは比べものにはなりませんが、55年体制と呼ばれた保革体制が瓦解し、改憲に向けての議論が活発に論じられるようになっていきます。本書はそうしたコンテクストで執筆されています。
「あとがき」でも雄弁に述べられているように、ユーゴのミロシェヴィッチ政権は2000年の大統領選挙に際して、選挙結果を改竄しようとして国民の大規模な抵抗運動、デモ行為に遭い退陣します(いわゆる「ブルドーザー革命」)。NATO空爆でも揺るがなかったミロシェヴィッチ政権が国民の力で地位を追われるわけです。このことは言い換えれば、民主主義(民族主義的ポピュリズム)の名の下に独裁体制を正当化してきた権力者が、民主主義(法の支配)を求める国民の力によって退陣したということになります。民主主義という制度の危うさを示唆しているかのようです。しかし、そうした問題意識(危機感なのかもしれません)から本書は執筆されていると考えると、本書の構成や主張はとても合理的、説得的なように思えます。
本書の中でとくに示唆的だと思われる箇所が二つあります。ひとつは「『和を以て貴しとなす』では法律はいらない」(70-71頁)という箇所。たとえば互いにその場の空気を読み合うような小規模なコミュニティであれば法律は要らないのかもしれません。しかし、国家のような大規模な組織となるとそうはいきません。場の空気に頼るのではなく、ルールを決めて、そのルールを適切に運用することが求められます。そう考えると、場の空気ではなくルールを重んじるというのは、民主主義社会の基本的前提条件でもあり、この指摘はとても重要です。
もうひとつは、(憲法9条は)「正義のための戦争はあり得ないという哲学を前提にしています」(201頁)という箇所。雑駁に戦争を①侵略戦争、②自衛戦争、③(①に対しての)制裁戦争として区別した場合、①は不正な戦争、②③の戦争、とりわけ③は正義の戦争、正しい戦争と謂われます。しかしながら、この考え方は侵略戦争とそれ以外の戦争を明確に区別することが可能である、ということを前提にしています。戦争になればどこの国も自分の国に都合の良いように戦争を正当化します。そうすると、そもそも①②③を明確に区別することなどできない、言い換えれば「正義の戦争」を明確に他の戦争と区別することは難しいということになります。そうであるならば、戦争それ自体を禁止してしまおうというのが憲法9条の前提です。この指摘はとても重要です。とくにユーゴ紛争でのNATO空爆やその後の9.11に対してのアフガン攻撃やイラク戦争など、戦争の正義に疑義が呈されるような事象がとくに90年代から2000年代にかけて頻発したことは記憶に新しいところでもあります。
この二つの指摘はとても重要なのでまた改めて書きたいと思いますが、本書の紹介に戻りますと、西洋の立憲主義の理想と現在の日本の問題、とりわけ90年代に端を発する改憲論議への疑義という問題意識から本書は執筆されています。冷戦構造の崩壊という国際政治上の変化が国内の政治構造(日本の場合は憲法9条によって規定される安全保障環境の問題)に変化を促し、それが改憲論というかたちで現れる。それに対して憲法学という知見から何を言うのか、何が言えるのかというところが一般向けに非常に平易に書かれた良書だと思います。