大学院法学研究院 准教授
大賀 哲

「ぼくの良識」(津田正太郎先生のブログより)

2015.12.3

20151203_comp

先日、津田正太郎先生がブログに「ぼくの良識」という記事を書かれていました。問題意識の明確な素晴らしい内容でした。で、それに対して感じたことをTwitterに連投しました。その後、お返事もいただいたりして何度かやり取りがありましたので、こちらに改めてまとめておきたいと思います。最初に断っておきますが、長いです!本当に長いです!(笑)。

私のコメントはこちらのツイートに紐づけて返信しています。

次のような内容です。

目を開かされたという意味でとても勉強になったのだが、同時に少し違和感もあった(…これは津田先生の言う「ぼくの良識」的状況が存在しないという意味ではない)。

確かにわれわれには、自分の狭い視野で「見えているもの」だけが社会の全体であるかのように錯覚してしまうところがあるかもしれない。世の中にはレイシズムが満ち満ちているにも拘わらず、すぐ目の前で展開されている「反差別の人たちのひどい醜態」に目が行ってしまう。

そして前者の問題なんかよりも、後者の問題の方がはるかに深刻な社会の病理であるかのように考えてしまう「ぼくの良識」という状況は確かにあるのかもしれない。おそらく以下のツイートも同じ問題意識から書かれたものかもしれない。

※ 以下のツイートというのは津田先生のこちらのツイート


ただちょっと考えてみたいのだが、A,Bという二つの問題があったとして、問題としてはAのほうがBよりもはるかに深刻であったとしよう。その際にAの問題よりもたまたま目についたBの問題に注目してしまうという状況は結構ありそうである。その意味で「ぼくの良識」問題は日常茶飯事かもしれない。

そこで深刻なAの問題よりも比較的目につきやすいBを批判するという状況はありうるが、その際に「AではなくBの問題を批判する」という状況は何を意味するのだろうか?例えば、これが「Aの問題を容認し、Bの問題だけを糾弾する」ということであれば事態は深刻だ。

ところが、多くの人にとって、とくに反差別運動の問題を深刻に受け止めているような人たちにとって、「AではなくBの問題を批判する」ことは、「Aの問題を容認し、Bの問題だけを糾弾する」ということではなくて、「Aの問題と同様にBの問題を糾弾する」ということを意味しているのではないか。

さらに言えば、「BにはAのようにはなってk欲しくない」という意識がそこにはあるのではないか(そう考えると「ぼくの良識」的状況は、そういう側面があることは否めないものの、また別の側面も見えてくる)。つまり、差別的言動は当然問題だけれども、貴方達が同じことしてどうするんですか?という話

そう考えると、「AではなくBの問題を批判する」ということが「Aを容認(または野放しに)して、たまたま目についたBの問題だけを批判して」『ぼくの良識』を維持している…というのとは少し別の側面もあるのではないかと。

寧ろ、Bの問題を批判することによって、Aは絶対に許されないということになるのではないかと。少なくとも私が目にした範囲で、Bの問題を真剣に批判している人たちの中にAの問題を容認しても良いという人というのはいないように感じるし、Bへの批判がAを野放しにするというのもそうではなくて、

両者ともに許されないという側面の方が強いのではないか。そう考えると「ぼくの良識」的状況も、単に一方に対して目をつむっているのではなく、寧ろ両者を問題にしている(一方は言わずもがな)ということではないのか。「ぼくの良識」という基本認識には同意するが、その点に若干の違和感があった(終

以上です。その後、津田先生からご返信とその他コメントをいただきました。

なかなか難しい問題ですね。私としては「個人的な戒め」というのはそうかな~と思いました。で、これに対して(すべての論点に答えているわけではありませんが)、私も次のようにお返事しました。

これは非常に良く分かる問題で、①議論のルールと②議論の勝ち負けどちらを優越させるかという問題。私としては①を前提とした②なのだけれども、所謂論破系の人たちというのは②の手段としての①という要素がとても強いので、①に拘りすぎると(とくにツイッターのような場所では)競争力が弱くなる。

結局、党派対立が強すぎてあらゆるものが政治化されてしまう…と口で言うのはたやすいのだが、自分も何度か経験したけど、(議論の内容ではなく)とにかくこいつは気に入らないから論破してやろうそのことしか考えてない相手と議論するのはかなりしんどい。説得・納得というプロセスが殆どないから…。

以前も書いた気するけど・・・アクター間の多様性(異質性)が高まり、党派性が強くなればなるほど、共通のコミュニケーション・ルール(一方の言語作法を権威化するかたちではなく)が求められる。

それから、さらに津田先生、「どっちもどっち」について論を進めます。

これもまた難しい問題ですね。私としては「どっちもどっち」が差別を肯定するならもちろん容認されないが、どっちもどっちで両方ダメだよというのはわりとアリかと思っています(無論、どっちもどっちというのが論理的に成り立つ場合に限られますが…)。私のコメントは以下の通り。

なかなか難しい問題です。それから、これ書いてたの深夜なのですが、他の方も関連ツイートを始め、私もさらに筆が走ります!

「Aを批判するなら、Bも批判しなければならない」というのは『そうした方が良い』というレベルでは理解できるものの、《そうしなければならない》とか《そうしないのはおかしい》とまで言われるとさすがに抵抗感があるなあ。

注:これは津田先生への物言いではなく、一般論として。津田先生はそれも踏まえてああいう書き方をなさっていると思うので。

「Aを批判するなら、Bも批判しなければならない」っていう論理を一般化すると、批判する側のハードルが高くなる(批判側は問題点を批判することに加えて、批判対象の類例に当たる事象が他にも無いかを調べなくてはならない)。それは批判する側を委縮させ、言ったもん勝ちの状況を作る危険性がある。

Aという主体からA’という被害を受けているXさんがいて、Xさんがそれを批判したら「AよりもBのほうが酷いことしてるから、Bのことも批判しろ」って言われる…という状況を考えたら分かると思う。XさんはAから受けてる被害に加えて、Bがしていることの問題点も立証しなければならない。

これは「Xさんが被害を受けている事実に憤りを感じたYさん」を主語にしても同様だと思う。

・・・。

なんだかいま読み返すと、自分でも信じられないくらいに怒涛のツイート連投なのですが(^_^;) 以下のようなことも書いてます。

ちょっと時間帯も時間帯だったので、最後のほうはただの愚痴になってます(^_^;)

結局言いたかったことは「○○を問題にするのであれば、△△も問題にしなければならない」という論法がそもそもあまり好きではないということと(究極的には○○と△△との関係性に依存しますが、あまり厳密な議論がされている印象はあまりないです…なんとなく、「○○は問題だ!」って言ったら脊髄反射的に「△△はどうすんだ!」って反応されるイメージ)、ただ自分の視界に入ってこなければ「ぼくの良識」は守られる…という視点は恥ずかしながらあまり意識したことはなかったので、そこにはっ!とさせられました。なんだか最後のほうは何が言いたいのかよく分からなくなってきましたが…最終的には、コミュニケーションはやっぱりしんどいよね!?っていうしょうもない答えに行きそうです。。長くなったのでここらでやめます(笑)。

 


コメントを残す

Required:

Required:

Required: