2015.12.3
先日、津田正太郎先生がブログに「ぼくの良識」という記事を書かれていました。問題意識の明確な素晴らしい内容でした。で、それに対して感じたことをTwitterに連投しました。その後、お返事もいただいたりして何度かやり取りがありましたので、こちらに改めてまとめておきたいと思います。最初に断っておきますが、長いです!本当に長いです!(笑)。
私のコメントはこちらのツイートに紐づけて返信しています。
津田先生のブログ記事。目を開かされたという意味でとても勉強になったのだが、同時に少し違和感もあった(…これは津田先生の言う「ぼくの良識」的状況が存在しないという意味ではない)。 ぼくの良識 – 擬似環境の向こう側 https://t.co/ueEm9KVeMM
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 26
次のような内容です。
目を開かされたという意味でとても勉強になったのだが、同時に少し違和感もあった(…これは津田先生の言う「ぼくの良識」的状況が存在しないという意味ではない)。
確かにわれわれには、自分の狭い視野で「見えているもの」だけが社会の全体であるかのように錯覚してしまうところがあるかもしれない。世の中にはレイシズムが満ち満ちているにも拘わらず、すぐ目の前で展開されている「反差別の人たちのひどい醜態」に目が行ってしまう。
そして前者の問題なんかよりも、後者の問題の方がはるかに深刻な社会の病理であるかのように考えてしまう「ぼくの良識」という状況は確かにあるのかもしれない。おそらく以下のツイートも同じ問題意識から書かれたものかもしれない。
※ 以下のツイートというのは津田先生のこちらのツイート
件の新潟日報の報道部長の件、たしかに酷いツイートなんだけど、差別的な嫌がらせツイートが山ほどなされ続けているなかで、そこだけフレームアップされると、確かにバランスが悪いという感は否めない。検索すればすぐにたくさん見つかるんだけど。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 24
ただちょっと考えてみたいのだが、A,Bという二つの問題があったとして、問題としてはAのほうがBよりもはるかに深刻であったとしよう。その際にAの問題よりもたまたま目についたBの問題に注目してしまうという状況は結構ありそうである。その意味で「ぼくの良識」問題は日常茶飯事かもしれない。
そこで深刻なAの問題よりも比較的目につきやすいBを批判するという状況はありうるが、その際に「AではなくBの問題を批判する」という状況は何を意味するのだろうか?例えば、これが「Aの問題を容認し、Bの問題だけを糾弾する」ということであれば事態は深刻だ。
ところが、多くの人にとって、とくに反差別運動の問題を深刻に受け止めているような人たちにとって、「AではなくBの問題を批判する」ことは、「Aの問題を容認し、Bの問題だけを糾弾する」ということではなくて、「Aの問題と同様にBの問題を糾弾する」ということを意味しているのではないか。
さらに言えば、「BにはAのようにはなってk欲しくない」という意識がそこにはあるのではないか(そう考えると「ぼくの良識」的状況は、そういう側面があることは否めないものの、また別の側面も見えてくる)。つまり、差別的言動は当然問題だけれども、貴方達が同じことしてどうするんですか?という話
そう考えると、「AではなくBの問題を批判する」ということが「Aを容認(または野放しに)して、たまたま目についたBの問題だけを批判して」『ぼくの良識』を維持している…というのとは少し別の側面もあるのではないかと。
寧ろ、Bの問題を批判することによって、Aは絶対に許されないということになるのではないかと。少なくとも私が目にした範囲で、Bの問題を真剣に批判している人たちの中にAの問題を容認しても良いという人というのはいないように感じるし、Bへの批判がAを野放しにするというのもそうではなくて、
両者ともに許されないという側面の方が強いのではないか。そう考えると「ぼくの良識」的状況も、単に一方に対して目をつむっているのではなく、寧ろ両者を問題にしている(一方は言わずもがな)ということではないのか。「ぼくの良識」という基本認識には同意するが、その点に若干の違和感があった(終
以上です。その後、津田先生からご返信とその他コメントをいただきました。
おおが先生から、長文のリプライをもらったので、こちらも長文のお返事を。「そんなに長いなら、ブログでやれ」とか叱られそうな感じもするけど…(昔、実際に叱られた) https://t.co/ilmqFXdvGy
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
あ、叱られたのは別の人です。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
少し遠回りになるんだけれども、「ネットという空間をどのように捉えるのか」という問題がある。ネットにはコミュニケーションのツールという側面もあれば、商業的な側面もあるし、政治的な側面もある。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
ネットをコミュニケーションの空間とみる場合、そこで重要なのはコミュニケーションのマナーやルールということになる。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
たとえば、嫌がらせのリプライを飛ばしたり、粘着質な批判をするというのは決して褒められた話ではない。その流れで言えば、最近の木村幹さんに対する批判はどう見てもやり過ぎだし、なかでも病気のことをあげつらうのは論外だとぼくも思う。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
先にブログで書いたような「良識的な」立場からすれば、もっともやりやすいのがこのコミュニケーションという観点からの批判ではないかと思う。コミュニケーションのルールを守って、意見の対立があっても理性的な話し合いで解決しましょうというのが落とし所。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
他方で、ネットには政治的な側面もある。橋下市長がツイッターでマスメディアの記者を名指しで批判することで揺さぶりをかけたり、ネット上での発言がもとで政治家が釈明する羽目になったりするのがその例。政治的な動員がかけられることもある。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
もちろん、有名人や政治家でもないかぎり、一人ひとりのネット上での発言がもつ政治的影響力なんて皆無なんだけれども、それは投票と同じで、気持ちの問題と言えるかもしれない。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
それはさておき、ネット上での政治という観点から考えると、差別と反差別という対立が存在するときに、どちらの側に立つのかという話にもなる。明確に差別の側に立つという人は少数だろうけれども、反差別の側が気に食わないという理由で、反差別的な立ち位置の人を攻撃する人は珍しくないと思う。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
このような対立構造があるなかでは、先のコミュニケーション的な批判というのはいささか座りが悪くなる。本人としてはコミュニケーションの問題を論じていたはずが、政治的な力学に絡め取られてしまう。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
おおが先生の用語法で言えば、Aという立場にもっと良くなってほしいからという理由でAの逸脱的行為を批判していたとしても、Aと対立するBの側による攻撃と結果的に共鳴してしまう。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
ここで重要なのは、言説の価値を結果論で判断/評価するというのはきわめて危うい側面を有しているということ。「オマエの言論は、結果的に利敵行為なのだ」というのは、言論を封じ込めるための格好の論法になる。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
だから、ぼくはそういう論法によって特定の誰かを批判しようとは思わないし、先に書いたブログがああいうスタイルをとったのも、そこに理由がある。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
長くなったけれども、Aへの良心的な批判がBに利用されるという政治的対立の構造がある以上、Aに対する批判をするのなら少なくともそれと同じぐらいにはBへの批判もしたほうがいいし、後者をしないのなら前者もやめたほうがいいのかな、という個人的な戒めに関する話。(おわり)
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
なかなか難しい問題ですね。私としては「個人的な戒め」というのはそうかな~と思いました。で、これに対して(すべての論点に答えているわけではありませんが)、私も次のようにお返事しました。
これは非常に良く分かる問題で、①議論のルールと②議論の勝ち負けどちらを優越させるかという問題。私としては①を前提とした②なのだけれども、所謂論破系の人たちというのは②の手段としての①という要素がとても強いので、①に拘りすぎると(とくにツイッターのような場所では)競争力が弱くなる。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 26
これは非常に良く分かる問題で、①議論のルールと②議論の勝ち負けどちらを優越させるかという問題。私としては①を前提とした②なのだけれども、所謂論破系の人たちというのは②の手段としての①という要素がとても強いので、①に拘りすぎると(とくにツイッターのような場所では)競争力が弱くなる。
結局、党派対立が強すぎてあらゆるものが政治化されてしまう…と口で言うのはたやすいのだが、自分も何度か経験したけど、(議論の内容ではなく)とにかくこいつは気に入らないから論破してやろうそのことしか考えてない相手と議論するのはかなりしんどい。説得・納得というプロセスが殆どないから…。
以前も書いた気するけど・・・アクター間の多様性(異質性)が高まり、党派性が強くなればなるほど、共通のコミュニケーション・ルール(一方の言語作法を権威化するかたちではなく)が求められる。
それから、さらに津田先生、「どっちもどっち」について論を進めます。
ついでに言うと、「どっちもどっち」ってよく言うんだけれども、「どっちもどっち」が何を意味するのかを少し考えてもいいのかな、と思う。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
「どちらの側にも逸脱行為がある」というのならともかく、「どちらの主張も等価だ」という流れになると危うくなってくる。「差別団体の言い方こそ悪いけれども、彼らの言うことにも一理ある」という「どっちもどっち」に転がっていきかねない。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
これは杞憂なのかもしれないけれども、差別というのはそれ自体で差別を再生産するところがあって、「あんなにも差別されているのだから、差別されるに値する理由があるに違いない」という発想をも生みかねない。差別を正当化する「理由」なんて、いくらでも見つけることができる。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
言い換えると、「対立する意見があるときにはそれぞれの言い分を聞き、合意できるところを探しましょう」という民主主義的な態度が、部分的にではあれ差別を肯定するような方向に流れていってしまうんじゃないか、という感じ。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
話を戻せば、「どっちもどっち」と軽く考えていると、気づけば一方の側にどんどん流されていってしまうのではないか…という不安がなんとなくある。考えすぎなのであればいいんだけれど。
— Shotaro TSUDA (@brighthelmer) 2015, 11月 26
これもまた難しい問題ですね。私としては「どっちもどっち」が差別を肯定するならもちろん容認されないが、どっちもどっちで両方ダメだよというのはわりとアリかと思っています(無論、どっちもどっちというのが論理的に成り立つ場合に限られますが…)。私のコメントは以下の通り。
おそらく①どっちもどっちだから「どっちも正しい」②どっちもどっちだから「やめておけ」というパターンがあって、①が論外なのは勿論そう。問題は②のパターンで、一方の行為を批判することが、他方の行為を容認するような「効果」を生む構造だと、②は容易く①になる。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 26
これがまあ私たちの政治制度の脆弱なところで「それぞれの言い分を聞き」という論理の中にヘイトスピーチを許容するような余地があることは否めないですね。そうするとやはり話は戻るが、コミュニケーション・ルール(しても良いこと、しちゃいけないこと)を定めてその土俵でのみ話し合うしかない。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 26
結局、言論レフリー(非当事者という意味)の下でコミュニケーション・ルールを徹底するしかないのではないかと。長い道のりではありますが…。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 26
なかなか難しい問題です。それから、これ書いてたの深夜なのですが、他の方も関連ツイートを始め、私もさらに筆が走ります!
「Aを批判するなら、Bも批判しなければならない」というのは『そうした方が良い』というレベルでは理解できるものの、《そうしなければならない》とか《そうしないのはおかしい》とまで言われるとさすがに抵抗感があるなあ。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 27
「Aを批判するなら、Bも批判しなければならない」というのは『そうした方が良い』というレベルでは理解できるものの、《そうしなければならない》とか《そうしないのはおかしい》とまで言われるとさすがに抵抗感があるなあ。
注:これは津田先生への物言いではなく、一般論として。津田先生はそれも踏まえてああいう書き方をなさっていると思うので。
「Aを批判するなら、Bも批判しなければならない」っていう論理を一般化すると、批判する側のハードルが高くなる(批判側は問題点を批判することに加えて、批判対象の類例に当たる事象が他にも無いかを調べなくてはならない)。それは批判する側を委縮させ、言ったもん勝ちの状況を作る危険性がある。
Aという主体からA’という被害を受けているXさんがいて、Xさんがそれを批判したら「AよりもBのほうが酷いことしてるから、Bのことも批判しろ」って言われる…という状況を考えたら分かると思う。XさんはAから受けてる被害に加えて、Bがしていることの問題点も立証しなければならない。
これは「Xさんが被害を受けている事実に憤りを感じたYさん」を主語にしても同様だと思う。
・・・。
なんだかいま読み返すと、自分でも信じられないくらいに怒涛のツイート連投なのですが(^_^;) 以下のようなことも書いてます。
いや、そもそもAとBは無関係だし、なんでわざわざこっちがお前の土俵に乗っかって「Aは○○、Bも××」論法に付き合わなきゃならんのかというのはあります。まずはAとBの関係を立証してから言ってください的な。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 27
本来、①を立証してから②に進むべきところ、①が当然の前提であるかのような物言いをされれば、そこは必然的に争点になるだろう。論証すべきところをレトリックで済まされてポカ~ンとする感じかな~( ̄口 ̄;)
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 27
そもそも何故貴方の一方的な被害妄想に過ぎないかもしれない「主観的な懸念」に対して、こちらの立証責任のハードルがどんどん高くなることを甘受しなければならないのか!
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 27
これはまあ会議とかでも感じるw
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 27
「敵ではないこと」をまずははっきりさせて、相手を安心させないと前に進めないやつね(^_^;)
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 27
ちょっと時間帯も時間帯だったので、最後のほうはただの愚痴になってます(^_^;)
結局言いたかったことは「○○を問題にするのであれば、△△も問題にしなければならない」という論法がそもそもあまり好きではないということと(究極的には○○と△△との関係性に依存しますが、あまり厳密な議論がされている印象はあまりないです…なんとなく、「○○は問題だ!」って言ったら脊髄反射的に「△△はどうすんだ!」って反応されるイメージ)、ただ自分の視界に入ってこなければ「ぼくの良識」は守られる…という視点は恥ずかしながらあまり意識したことはなかったので、そこにはっ!とさせられました。なんだか最後のほうは何が言いたいのかよく分からなくなってきましたが…最終的には、コミュニケーションはやっぱりしんどいよね!?っていうしょうもない答えに行きそうです。。長くなったのでここらでやめます(笑)。