2015.12.4
Twitterをしてる人にはお馴染みなのですが、学問分野別に学術botの人たち(○○学たん)というのがいらっしゃいます。いろいろとバリエーションがありますが、学部レベルの学生向けに基礎的な知識を随時呟いているという方が多いように思います。そうした学術botの中に国際政治学たんがいます。私は中の人とも相互フォローになっているのですが、いつもとても重要な論点をツイートされています。
今回、国際政治学たんがとても興味深い議論を展開していました。元岐阜大学教授吉田千秋さんのスピーチの中で、「日本は戦後70年間、戦場で1人も殺さなかった」という発言があり、その是非をめぐって議論になっていました。複数の方が議論に加わられていて、私も前回の「ぼくの良識」との関係で思うところあって言及ツイートをしました。
こんなまとめサイトもできています(「日本は戦後70年間、戦場で1人も殺さなかった」という発言を巡って)
まとめサイトにも記載されていますが、私のツイートは下記です。改めて付け加えることもないのですが、やはり直接的な関与と間接的な関与は分けて考えた方が、議論としては良いように思います(勿論、短いスピーチの中で言及できることには限りがあるので、なかなか難しいとも思いますが)。あとはツイートにも書きましたが、自分の目に見える範囲が平和であれば「ぼくの良識」は守られるが、本当にそれで良いのか?目に見えないところで私たちは間接的に「殺戮」に関与しているのではないか?
自戒を込めて言うと、普段そんなことを考える機会は少ないのかもしれませんが、自分自身、「平和」とは何かを改めて考えるとても良い機会になったのではないかと思います。
(1)一連の連続RTにつき、少し思うところあって連投します。
まず、吉田千秋さん(SEALDs TOKAIの要約元のスピーチ)は、日本は戦後70年間海外(戦場)で、殺し、殺されることはなかったと言っていて(仮にこれを命題Aとします)、
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(2)対して、国際政治学たんはそれは一国平和主義的な見方であるとしている。なぜならば、直接的に加わらなかっただけで間接的に殺戮には加わっていたから(こちらを命題Bとします)。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(3)銀冠さんがとても良い交通整理をなさってますが、直接的関与を問題とするか(A)、間接的関与までも含めるか(B)によって論点の前提が異なってきます。その上で、私も、独善的はともかくも無知といった表現はやや言い過ぎではないかと思います(また徴兵制反対という文脈も重要でしょう)。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(4)他方で、国際政治学たんの問題意識もある程度は理解できて、要は殺し、殺されることはなかったという事実を以て日本が清廉潔白であったかのように戦後70年を形容することにも疑問を感じるということではないかと思います(論争的ではありますが、仰りたいことはまあそういうことなのかと…)。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(5)これは先日、津田さんが投じておられた「ぼくの良識」という点ともつながってくるのかと思います。つまり、目に見える範囲で殺戮が行われていないことで「ぼくの良識」は守られるが、それで本当に良いのか?という問題。
https://t.co/ueEm9LcQbm
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(6)そして、遠藤先生のツイート。次のような問題提起ではないかと思います(ほぼ引用ですが…)。
①日本という潜在的軍事大国が軍事力を使わないという選択は、一国を遥かに超え他国に影響する。
②それを無視し一国平和主義とする事で、
③皮肉な事に酷く一国主義的な思考に陥っている。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(7)①は仰る通り(と思います)。②は結論としては正しいものの、論証過程が国際政治学たんのそれと若干異なるように思いました…。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(8)国際政治学たんの主張は、「直接的な殺戮はなくとも間接的には関与していたのだから、それを無視して清廉潔白のように論じるのは、現実から目をそむける一国平和主義ではないか」(仮にこれを命題B’とします)ということ。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(9)つまり国際政治学たんは、①の要素を無視して②を主張しているのではなく、BまたはB'の主張をもって②を主張している。遠藤先生は「①を無視すること」を一国主義と呼んでいて、国際政治学たんはB'を無視することを一国平和主義と呼んでいて、それぞれ用法が異なっています。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(10)その上で、③をどう評価するかは、①およびB/B’の命題をどう評価するかに左右されます。国際政治学たんはBまたはB’を主張するものの①を否定するものではないので、①→③(つまり①を無視した③一国主義的主張である)という指摘は必ずしも当たらないようにも思います。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(11)他方で、①の位相を重視するという遠藤先生の主張自体は勿論理解できますし、Aの命題を徴兵制反対というコンテクストで理解すればAと①の議論は繋がってくるので(日本自らが直接的に武力行使をしないことが重要なのだ)、それ自体はBおよびB’に対しての反論にもなりうると思いますが、
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(12)国際政治学たんの認識は(①を否定するものではないというのは無論のこと)、Aの命題を否定するというよりは(独善的、無知という表現はさておき)、認識の幅(直接的な殺戮/間接的な関与)の議論について再考を促すもののように思います。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(13)国際政治学たんの主張は徴兵制を肯定するものでは勿論ないと思いますし、その意味で、コンテクスチュアルに言って、Aおよび①の命題を直接否定するものではないが、しかし①の事実を以て日本の間接的な関与までも不可視化(または無視)してしまうのは拙い、
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29
(14終)むしろ徴兵制や安保法制の問題点を指摘するのであれば、日本がこれまでおこなってきた間接的な戦争の関与こそを問題にすべきなのではないか。そう考えるとA、B、B'、①~③という一連の議論は、細かな定義や用法は異なるものの、問題意識としてはそんなに違わないのではないかと。
— おおが( o ̄▽)o<※ (@toruoga0916) 2015, 11月 29